鶴岡市にある荘銀タクトで開催された【TACTおとアート】に、photographerとして参加しました。残念ながら今回は新型コロナウィルス感染症の影響によって、無観客のYoutube配信という形になりましたが…。参加したときの作品の一部と感想を述べたいとおもいます。
目次
2022.3/5(SAT)「TACTおとアート」は主に地元で活動するアーティストによる
うた、楽器演奏、バンド、アート作品展示・ライブペインティング、ワークショップなど様々なジャンルのアートがもりだくさんのイベントです
https://tact-tsuruoka.jp/events/tact%e3%81%8a%e3%81%a8%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%88-2
今回の作品である『模造品、なのかもしれない。』は写真のオリジナリティがどこに存在するのか、そもそも写真の定義とはなんなのかを問うものです。 著作権フリーの画像サイトからダウンロードした画像のバイナリデータをプログラムによってランダムに書き換えることで、グリッチを加えました。
日本で言う「写真」は「真を写す」という言葉に縛られすぎている感覚があります。いわゆる、撮って出しが一つの価値になり得るのもその影響があるように思えます。確かに「写真」という言葉の言語をたどると、古代中国の文献にあたり、時代の変化によってリアルな対象物を描き出した絵画全般をさすことからその意味が色濃く残っていてもおかしくはありません。加えて、リアリズムの巨匠であり酒田出身の写真家【土門拳】の影響も大きいと考えています。
もちろんこういった価値観があるのはすばらしいことだと思いますが、現在の写真の定義はもっと曖昧で広義があるはずです。
私達が見ている写真は、デジタルカメラで撮影したものはもちろんですが、フィルムカメラで撮影されているものも一度はなんらかの形でデータによって処理されているものがほとんどです。デジタルに変わる際、Red,Green,Blueのそれぞれ0~255の256段階に色が分けられ、それらの数値の組み合わせによって1つの画素の色が定まります。そしてその点の集合が写真を構成しています。
スマートフォンで写真を撮る際の色付けは、その会社(もしくはプログラム)によって定められます。色だけとってきても本来の色をそもそも写し出せているのでしょうか?加えて、肉眼とレンズでは焦点距離が違うため、歪みや圧縮が現れます。改めて考えてみると撮って出しも、本当に真を写しているのか疑問に思うことが多々あります。
現代の写真は、データである側面を逃れることができないのも大きな特徴であると考え、今回の作品の根底が作られました。RGBをより細かく考えていくと「0と1」の組み合わせで構成されているので、その0,1の順番を入れ替えることによってグリッチを引き起こしています。
パソコンで簡単にこの状態を見るには、「.jpg」のデータを「.text」に変えて文字データとして開き適当に文字を書き換えて「.jpg」に戻します。そうするとおそらくグリッチが現れるはずです。(前半部分を入れ替えると開けなくなることが多いので後半を修正することをおすすめします。)
写真家やフォトグラファーといった、いわゆるアーティストは基本的には自分が撮影したものが作品になります。しかし今回は世界中のだれかがとったモノをプログラムを通してグリッチを加えることで作品を完成させています。こうしてできた作品のオリジナリティはどこにあるのでしょうか?今回はそれを見てくださる方々に問いかけ、曖昧さを楽しんでもらえるようにしました。
面白いと思っていただければ幸いです。
今回はこうしたテーマで作品を作ってみましたが、他にも作品を作っておりますのでよろしければこちらのインスタもフォローしてください。これは海ゴミをテーマに作成しております。
今回のイベントに参加するなかで強烈に感じたのは、デジタルではなく物質として作られたものの強さです。特に立体物は空間にあるだけで、放っている情報量が多く、鑑賞の方法の幅が広いです。
物質になることで、ぱっと見た瞬間に、作られるまでの手間や技術が感じられたり、見る位置よって作品の見え方が変わってくるというのも面白いなと。
今後写真をアウトプットする時に、スマホの画面上では表現できないなにかを加えた作品を作りたいという欲求が生まれてきました。
今回できたこととできなかった部分が見えてきたので、また作品作りに向き合っていきたいと思います。展示する機会がありましたらお知らせいたしますので、ご興味のあるかたはぜひ遊びに来てください。